#3

 本日二度目の金的攻撃に俺は暫くの間悶絶していた。その間に死ね馬鹿糞変態痴漢蚤虫野郎と少女に言われた称号が俺の頭から離れない。ああ、ほんと今日は厄日だ。何かもうこのまま午後の授業はサボろうかと思う。何をやってもうまくいかなさそうだ。
 痛みもだいぶ引いてきた。俺は再び屋根に上りごろんと仰向けになる。
 海風が体をなぞる。空に浮かぶ雲が当てもなく流されているのをただ何となく眺める。遠くで小鳥の囀りを聞きながら触れば粉々に割れてしまうほど傷ついた心を癒そう。そういえば午後の授業って何だったっけ? 五時限目は体育と……何だったかな?
 暫くこの状態でぼーっと六時限目の教科のことを思い出そうとしていると、五時限目の予鈴が聞こえた。そして五分後には五時限目の開始を知らせる本鈴がなるだろう。授業に遅刻しないよう各地に散っていた生徒達は自分の教室に戻って授業を受ける準備をする時間だ。あいつらだってそうだろう。こういう真面目な態度はさすが進学校って感じだな。
 そう思っていた矢先、屋上の扉が開く音が聞こえた。
 ぎくりとした。まさか教師が見回りに来たのか。それはまずいぞ。別に見つかってもすいませんでしたとへーこらと謝って教室に戻っても何ら支障は無いわけだが、俺の体は見つかったらやばい、と囁く。
 とりあえず息を潜めて様子を見る。
「んー……おかしいな。ここに隠れられるような場所はないはずだけど……」
 この声は、まさか橘先輩!? おいおい、なんで生徒会長がこんな屋上に、しかももう予鈴も過ぎてあと数分で五限目が始まる時間に、だ。生徒会長とあろう者が、授業をサボるなんておかしな話だ。まさか橘先輩は俺を捜してここに来た訳じゃあないよな?
「とはいえ、ここから降りていないのは間違いないから……それなら」
 橘先輩は上を見た。それはまさに俺の居場所を的確に見抜く。俺は一瞬獣に睨まれたような戦慄を覚える。俺はとっさに身を丸めて橘先輩から見えないように中心付近へ後ずさる。これはまさか、怒ってる? いや何故に?
「浅羽君、そこにいるわよね?」
 まるで先生のお説教がこれから始まるような雰囲気。あたりに漂う緊張感。何だかよく分からないうちに悪いことをした子供の立場のようだ。出るに出られない感じになってしまったので、こうなったら意地でも橘先輩に捕まらないように逃げてやる。
「自分から出てこないんなら、こっちから行くわよ」
 チャンス。橘先輩が梯子に足をかけたときに飛び降りて急いで階段を下りれば、あっという間に差を付けられるはず。ここに上がるための梯子は金属製。ならば、足をかけたときに金属音が響くはず。俺は神経を研ぎ澄まし、橘先輩が梯子に手を掛けたタイミングを見計らう。
 カツン、と金属音。今だ!
 俺は飛び降りた。
 目下に橘先輩が立っていた。
「残念」
 橘先輩は笑顔。その手には小石みたいな物を持っている。恐らく風化したコンクリートの欠片。これを当てたというのか!?
 俺は着地した。その衝撃で足が痺れる。それに堪えつつ、
「橘先輩、俺に何か用っすか?」
 ごくごく普通に話をかける。別に俺悪いことなんてしてないし、みたいな感じで。
「んーとね、最近ここで昼寝をして五時限目に遅刻する生徒がいて困ってると、先生から相談を受けまして」
「それはひどい奴っすね。じゃ」
 いや俺別に昼寝してないし。遅刻してないし。悪いことしてないし。というわけで橘先輩の説教を聞く義務はないのでそそくさと退散退散。
「そこであたしは提案しました」
 聞きたくない。この後に言うその言葉を聞きたくない。ろくでもないことに決まっている。
「どっちも遅刻なんだから遅刻届を書かせましょう。六枚くらい」
 俺は走り出した。不意を突かれた橘先輩は一瞬反応が遅れ、おかげで俺は階段のところまで一気に行くことに成功。何が六枚だ、あからさまに俺の遅刻届枚数を意識してるじゃねえか。
 橘先輩が追いかけてきた。俺は階段の中腹くらいから飛び降り、一気に下へ。
「こら! 待ちなさい浅羽君!」
 橘先輩もジャンプ。俺と橘先輩の差は一気に縮められ、俺はかなり焦る。なんとか振り切らないと俺の夏休みがなくなってしまう。嫌だ。また夏休みがなくなるのは。
 二階まで階段をジャンプしつつ下降する。橘先輩と俺の距離は徐々に詰められていく。恐らく直線の早さも橘先輩の方が上だろう。俺の足の遅さは折り紙つき。だから俺は階段をジャンプして飛ばして一気に引き離すつもりだったのだが、橘先輩にはそれは通用しない。どうする。
 いや、まだ策はある。
 いよいよ一階まで降りてきた。もう階段はない。とにかくここは全速力で走る。
「浅羽君、あたしから逃げられると思ってるの?」
「普通に逃げるんだったらな!」
 今の時間は五時限目が始まる数分前。そして俺のクラスの五時限目は体育。逃げるのと同時にこのまま授業を受けてしまおうという作戦。完璧すぎる。
 対して橘先輩は成績優秀無遅刻無欠席の学年主席で生徒会長様だ。ならば必ず本鈴がなる前に諦める。自分の功績に泥を塗る真似は出来るわけがない。
 しかし、
「――観念しなさい!」
 橘先輩に肩を掴まれてしまった。
「うわっ!?」
 全速力で走っていた俺は当然足がもつれた。倒れる体と一緒に、肩を掴まれている感覚も一緒だ。すなわち、
「きゃあっ!」
 橘先輩も一緒に倒れた。俺は廊下と橘先輩にサンドイッチに遭いかなりのダメージを受ける。その痛みと疲労で俺の体は呼吸以外何も出来ない。このチャンスを逃すものかと言わんばかりに橘先輩は肩を掴んでいた手を俺の腰に回してきた。やばい。
「もう、逃がさないわよ」
 やばいやばいやばい。この状況はかなーりやばいんじゃないか。汗がダラダラと噴き出てくる。俺の背中に感じる豊かな感触。荒い、生暖かい息。理性では押さえきれない本能が条件反射する。ぐおお、静まれい俺の息子よ! 今は興奮している場合ではない。公衆の前で抱きつかれているこの状況を一刻も早く脱出しなければ!
「ちょっと、そこで何をしているの!?」
 この声はまさか。俺は声がした方へ顔を向ける。
 やはり橘先生だった。
「んーと……屋上でサボろうとしてたこの子を捕まえただけよ」
「だからってそんな……抱きつくようなことを」
「これはただの事故よ。捕まえたと思ったら一緒に転んじゃったの。ね?」
 橘先輩は俺に同意を求めた。
「そうだけど橘先輩、ちょっと重ぐえっ!?」
 橘先輩に首を決められた。
「んー?」
「ぎぶぎぶぶぎぶびぎ!!」
 橘先輩の腕に手で叩いてギブアップの意思表示。かなり力強く絞められて意外にやばかった。橘先輩はすぐに腕を解いてどいてくれて、ちょっと一安心。
「もう……とにかく、もうすぐ授業が始まるから早く教室に戻りなさい」
「えー。めんどくさーい」
 何……だと? 橘先輩が授業がめんどくさいと言って教室に戻るのを拒否するとは予想外。
「香織、何を言ってるの! 子供じゃないんだから」
「あの濱中セクハラばっかりするんだもん。めんどくさいったらありゃしない。母さんもそう思うでしょ?」
「え、わ、私は……そんなはずないわよ、濱中先生がセクハラするなんて」
「ふーん」
 えーと、何でしょうかこの会話。昼ドラよろしくすっげー重い親子の会話。ものすごく関わりたくない。とりあえず濱中とかいう先生はクソ野郎とだけ覚えておこう。
 この重苦しい空気を変えたのは本鈴のチャイムだった。
「と、とにかく二人とも教室に戻りなさい」
 橘先生はそう言って早足で二階へと上がっていく。その様子を見届けた後、俺はしょうがないから外に出ようかと足を踏み出した。あ、そういえば体操着に着替えてねえー。めんどくせえ。
「浅羽君」
 橘先輩に声をかけられた。俺はその声の方へ振り向く。
「このまま一緒に――」
 少し間があり、
「遅刻届書こ?」
 そういった橘先輩は笑顔だったが、そこには女神のような完璧な笑顔ではなく、寂しそうな一人の少女の笑顔だった。
「……しょうがないな」
 俺はそう答えて橘先輩から一枚だけ遅刻届を貰った。



 家の時計が七時を指したのでテレビを六チャンネルから十チャンネルに替える。今日は木曜日。別に面白いというわけではないが、ほかに見たいものがないのもどうかと。ゴールデンタイムだから一般受けを狙っているのは認めるが、それでなくても面白いといえる番組を作れないのか。CMのほうがターゲットがわかっている分面白いぞ。
 ああ、別にテレビ局やら番組に不満があるわけではない。というかテレビがないと生活なんて出来ないだろう。そこまで日本のテレビの支配力は強い。だからこそ、テレビと我々視聴者との距離感はちゃんと自分でつくるべきだろう。
「出来たぞ、ちゃんと机の上は片付けたか?」
 台所からジュンが今日の夕飯を持って出てきた。今日のメニューは和風ハンバーグ、ポテトサラダ、しゃきしゃきレタスとトマトのサラダに人参。
 ……人参? しかも一本丸ごとだと!?
「お、おいおい、それは無理だろ」
「残さず食べてね、あなた(ハート)」
「気持ち悪いからそういうのは止めてくれ」
「ちっ、急遽設定した新婚生活三日目の人妻を演じたというのに……。お前人妻萌え〜じゃなかったのか?」
「それはお前です」
 それにしたって人参一本丸ごと出す新妻もどうよ。
「まあな。ところでよ、昼に何があったんだ」
 一瞬心臓がドクンと打つ。昼にあったことと言えば美少女に金的攻撃を受けたとか橘先輩に抱きつかれたとか人には言えないものばかりだ。
「――いや、無理に聞きたいとは言わないけどよ、……はあ、まあ何かあったら言ってくれよな。俺が代わりにそいつをぶっ飛ばしてやるからよ」
「……あ、いや、俺のことなら大丈夫。そんなことしなくていいから」
 ジュンは普段はわりと大人しく他人に関らないが、俺たちが絡んでくると男だろうが女だろうが容赦はしない。中学時代にアケミに絡んできた女子達に手を上げたこともあったくらいだ。まあ何というか、ちょっと怖い。
「そうか? ならいいけどよ」
 ジュンの作ったハンバーグを一口サイズに切って口に運ぶ。口に入れた瞬間、肉汁がジューシーに口いっぱいに広がる。うむ、美味い。
「ちゃんと野菜食えよ」
 そう言い残してジュンは立ち上がった。
「あれ? 今日バイト?」
「ああ、そろそろ行かねえと怒られる」
 ジュンは不定期に夜のバイトを入れている。それは俺達が高校に入ってからやり始めたそうなんだが、どんな仕事なのかは聞いていない。まあこんな時間に入るんだから、裏方で片付けとか閉店の手伝いでもしているんだろう。ご苦労様です。
「じゃあ、行ってきますのキスを」
「さっさと行け!」
 ふざけるジュンを玄関に追いやる。まったく、ジュンがあんなキャラになっちまうなんて……。この世はどうかしてるぜ。



 本当に、本当にこの世はどうかしている。
 いつもと同じ朝、いつもと同じ通学風景に、いつもと同じ街の人、いつもいつも繰り返される毎日の歯車に、俺だけがそこに噛み合わなくなってしまった気分だ。
 俺たち三人が学校に着くと、昇降口にある学校の掲示板に人だかりが出来ていた。
「何だ? 変質者でも現れたのか?」
「さてね。なーんでしょ?」
「さてはスグル、何かやったんじゃないか」
「し、知らねーよっ」
「はは、…………お?」
 人だかりは何やらこちらを見てひそひそと小声で合図を出し、ぞろぞろと散っていく。そしてついに掲示板を見ているやつはいなくなった。
「……なんだ?」
「とにかく見てみようぜ」
 そして、
「っ……、な……!?」
「こいつは……」
 それは一枚の写真だった。そこに写っているのはこの学校の屋上で男子と女子が、――男が上で女が下になってキスをしていた。
「もしかしてもしかしなくてもさ……、この男さ、スグルに似てね?」
 俺はただ立ち尽くしていた。これがこの場所に貼られている事実。それが意味することの重大さに思わず眩暈が起こる。
 撮られて……いた?
 だが幸いなことに、この写真では顔ははっきり写っていない。どこの誰かはこの写真だけでは推測の域を出ないだろう。黙っていれば大丈夫のはず……。
 後ろから、
「浅羽君」
 この世の終わりかと思った。振り返ると、そこには橘先輩が立っていた。表情は……いつもと同じ、笑顔。その後ろにはあいつがいた。こっちはものすごい目付きで俺を睨んでいる。
「今から生徒会室に来てね」
 ここで言い訳なんて聞かないだろうな。俺は素直に「ああ」と答えた。






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