第一話

 今、僕の目の前にあられもない姿をしている女がいる。
 その女は脚を広げ、ニヤリと微笑みを浮かべて男の本能を挑発している。顔は、まあそこそこ。胸は、けっこうおっきい。プロフィールを見れば、バスト九四ウエスト五十八ヒップ八十五とか。悩ましい。実に悩ましい。八十八かあ。ソフトボールとどっちがおっきいんだろう。
 次のページを捲ってみる。
 未知との遭遇である。が、子供の僕にはまだ早いとばかりに肝心の部分に黒いブロック状のフィルターで隠されている。本を少し傾かせて見てもやはり見えない。想像力で補うにはまだ早い。ブロック状に染めてあるその先にあるものが何なのか、僕は知りたい。
 後ろから足音が聞こえたような気がした。
 勢いよく本を閉じて背後を確認する。薄暗い雑木林の中。人に見つかるのを恐れて結構奥まで進み、少し土手のように盛り上がっている場所を発見してここなら大丈夫だと安心していた。しかし、ざっと見渡してみても人らしい人影は確認出来ない。
 気のせいか。
 でも、本を見るのに夢中で結構な時間が経っていたみたいだ。そろそろ家に帰ろう。
 いやでも、彼女たちとの別れるのは少し寂しい。
 どうせ家に帰っても誰もいないのだ。
 なので、もうちょっとだけ、ほんの少しだけだから、この本を持って帰ってもいいよね。
 借りるだけだから。明日返すから。見つけた場所に置いてくから。
 大丈夫だよね。
 僕は急いで本を服の中に隠し、大した量も入っていない鞄を持って早足でその場から立ち去った。


 * * *


 僕は今まで十五年間生きてきて女の子からモテたことがない。
 それなりには女の子と話すことはあるけれど、それで特に仲良くなることはない。せいぜい教科書を忘れちゃったから見せてとか、課題の範囲ってどこからどこまでだっけと質問されるだけである。
 まあ、僕も僕でもっと積極的に話しかけるべきなのだろう。
 しかし、だ。
 世界というのは不条理に出来ている。今のクラスの大部分の男と女はそれぞれつがいなのである。今日も昼休みの時間になればみんないちゃいちゃしているのだ。これ、今朝私が作ってきたの、あーん。どお? おいしい? こんな会話が僕の隣で毎日繰り広げているのだ。ちくしょう。塩味が濃くてまずいと言ってやりたかった。
 勿論そんなことを言ったところで嫌な奴だと思われるだけだし、彼女が出来るわけでもない。僕の居場所は教室にはない。一人で学食まで行って日替わりランチAセットを買って隅っこの方で黙々と食べる毎日。
 学校でも一人。
 家でも一人。
 こんなはずではなかった。
 もっと充実した高校生活を送ってるはずだった。
 地元の高校で良いと親には言われたが、僕はそれを断った。
 理由は簡単だ。片思いをしている女の子が私立霞ヶ原学院を受験すると聞いたからだ。
 我ながら青かったなあとしみじみと思う。実家からだと車で一時間。バスも電車も一応通っている学園都市であるが、結局バス停に行くにしろ駅に行くにしろ霞ヶ原学院に到着する時間が同じくらいなのだから無いのと一緒だ。
 だから僕は一人暮らしという選択を取った。
 理由は簡単だ。その彼女が一人暮らしをすると聞いたからだ。
 親を説得するのに春休み丸々使った。
 家賃がどうこうとか生活費がどうこうというより、自炊が出来るのかとか掃除が出来るのか、更にはゴミをちゃんと分別して出せるのかと家事全般の方を酷く心配された。仕方がないので僕は春休み、自分一人で出来ることを証明するために必死で家事をした。掃除をした。ゴミを分別して出した。風呂の掃除をした。洗濯をした。買い物をした。洗濯物を取り込んだ。夕飯を作った。とにかく何でもした。親に頼らず一人でしなければならないことに眩暈が起きそうだったが、それも彼女と一緒に学校へ登下校するためだと思うと自然とやる気がでた。
 そして四月。
 親の知り合いを通じてアパートの一室を貸してくれることになった。小高い丘の上に建てられた洋館風の二階建ての建物で、そこそこ景観は良い。部屋は一階の104号室で間取りは1LK、暖冷房完備、テレビとユニットバス付と一人で住むには十分過ぎる部屋だ。
 彼女のアパート、とまでは言わないが、せめて近くになれる場所であればどこでもよかった僕は、二つ返事でここに住むことを決めすぐさま荷物を運んだ。ただでさえ入学式が四月五日からなのだから悠長なことを言っていられない。
 ここまで行動出来ているのに、何故彼女に告白出来ないのか。
 情けない。そう言われても仕方ない。
 怖すぎるのだ。告白して断られたらどうしようという不安が。ここまで行動出来た物は全て彼女のためという僕の全てなのだ。それを壊されてしまったら、僕はどうして生きているのかとまで思ってしまう。
 当たって砕けてはどうしようもない。
 まずは友達になろう。
 どうやって。
 悩む。悩みに悩んで四月が終わりゴールデンウィークも明けて今に至る。エロ本を服の下に隠して家に帰って性欲で遊んでいる場合ではないのだ。彼女と紙にインクが染みこんだ印刷物とどっちがいいんだ。
 エントランスホールまで来て回れ右をした。
 今まで歩いてきた道を逆走する。坂道になっているためか自然と足は速く動き、何か悪いことをしているのではないかと罪悪感が募る。一刻も早くこの女を捨てるために脇道に入って路地裏に入りフェンスをよじ登る。誰も手入れをしていないであろう荒地の先にはやはり雑草と針葉樹の生い茂る丘があり、その頂上付近に僕が住んでいるアパートが建っている。その近くに立てられている看板には売地九百坪お問い合わせは富野不動産までと書かれている。
 ここはアパートからそれほど離れていない。せいぜい直線距離にして百メートルほど。見上げればアパートの窓が疎らに光っている。
 誰も見やしないのに、僕は光がちょうど隠れる場所を探そうと目をふもとの方へ移した。
 全裸の女性が死んでいた。
 ついさっき同じ裸を見ていたのに僕が感じたモノは性的興奮ではなくおぞましいまでの恐怖であった。全身に切傷がついて胸元にナイフが突き立てていた全裸の女は到底この世のものとは思えないくらい不気味で、僕は化物を見たかのように腰が抜けて隠していたエロ本が地面に落ちたことにすら気づかなかった。悲鳴を上げることも出来ない。とにかくその場から立ち去ろうと思って、ハイハイをするように地面を這いつくばって涙目になりながら逃げ出した。
 警察に通報しようと考えることも出来なかった。
 ただただ僕が見た物は夢であったと思いたかった。
 アパートの自室に戻り真っ先に僕は布団を被りその中でずっと身体を震わせていた。
 何も見ていない。
 何も知らない。
 分からない。
 たすけて。
 だれか。


 * * *


 目覚めは最悪だった。
 昨日の夜から何も食べていないしろくに眠れもしなかった。あんなものを見たのに食欲と睡眠欲は自己主張が激しい。
 頭をぼさぼさと掻いて自分が制服のままで眠っていたことに今気がついた。着替えを用意して制服を脱ぎそのまま洗濯機にぶち込んだところで腹が鳴った。残り一切れの食パンを口にくわえて着替える。
 携帯電話を取りだして時間を確認する。六時五十八分。それを確認すると天気でも確認しようと何気なく携帯のネットのトップページへアクセスした。適当にスクロールをしながら眠気覚ましのコーヒーを飲むために湯を沸かした。まあ、砂糖とミルクはたっぷりだが。
 全裸の女性が雑木林の中で遺体で発見されたという見出しを見たのは、まさにお湯をコップに注ごうとしたときだった。
 コップからこぼれた熱湯が危うく足にかかりそうになった。
 まさか。
 僕の脳裏に浮かんだのは勿論昨日の死体だ。誰かに発見されて通報されたのだと思った。
 しかし、記事に載っている情報は僕の知っている場所ではなかったが、同じ県内であった。どこだと画面をスクロールしたものの、写真もなく文章も短い上続きは会員登録しなければ読めないサイトだった。こんちくしょう。
 こういう事件だったらしい。
 昨晩発見された全裸の女性は人間ではなく精巧に作られた人形で『理想彼女』という愛玩用具だそうだ。この人形は人工知能が付いており、あたかも自分の理想通りな彼女の様に行動させることが可能な為、一部の間で話題になっていたものだそうだ。この不法投棄された理想彼女があまりにもリアル過ぎて、発見した男性も死んだ女性と勘違いして通報してしまった、と。
 ――理想彼女、ね。
 その考えには頷きたい部分がある。現実に理想がなければ自分で作ってしまえばいい。なるほど、確かに立派な考え方だ。
 問題はその行動力をもっと人のために向けるべきだと思う。
 腹が鳴った。
 フローリングにこぼした湯をタオルで拭く。飲み損ねたコーヒーをまた作るために水を張り直して火に掛けて、今日の授業は何かと思い出そうとしたところで顔が青ざめた。
 鞄が無い。
 どこにやったのか見当が付かない。昨日は真っ先に布団に潜り込んだから玄関から直線上のどこかに落ちているはずである。それがないということは、
 死体現場に落としたのだ。
 腹が鳴った。
 ヤカンからピィ――――――――と断末魔のような音がなった。


 * * *


 もしかしたら、と思う。
 昨日見た死体は今日のニュースであったような理想彼女という人形なんじゃないかと。暗くてろくに見えなかったけど傷口から血のような物は見えなかったし、何より人が行方不明になっているのだからもう少し警察が捜索していてもおかしくない。あれは誰かが使ってみて全然自分の理想と違うじゃねえかと逆上してナイフを突き立てて捨てた物だと考えれば、一応筋は通りそうだ。
 捨てるだけなら、わざわざナイフを突き立てる必要があるのかとは思うけれども。
 とにかくそう考えておかないと昨日の現場にまた行こうなんてとても出来なかった。路地裏を抜け、フェンスをよじ登って荒地に出る。そのまま九百坪の売地を教えている看板を目印に少し奥へ進む。
 エロ本と鞄が落ちていた。
 やはり昨日ここで見たものは本当だったのだ。そしてあそこまで行かないといけないという恐怖が僕を襲った。
 もしも本当に死体だったらどうする。
 今度こそ警察に通報しなければならない。
 そうだよ、警察が何とかしてくれる。
 僕はただ鞄を回収するだけで良い。
 何も怖いことはない。
 僕は何故か忍び足で鞄の所へ静かに、ゆっくりと近寄っていった。
 視界に全裸の女が入ってきた。
 僕は目を逸らした。女と鞄の距離はせいぜい十メートルほど。ならば、このまま目を瞑って手探りで鞄を捕まえることは可能なはず。膝を地面に付けてまるで眼鏡を探すかのように僕は地面を探し始めた。
 その手に何か当たったのと、何かが起き上がるような音が聞こえたのは同時。
 うわああと声を上げたかもしれない。あまりよく覚えていない。
 ただ確かなのは。
 死体だと思っていた女が胸元にナイフを突き刺したまま起き上がり、寝ぼけ眼な顔で僕を見て、
「――へっくちょ」
 とくしゃみをした。
 その衝撃のせいかどうかは知らないが、ナイフがぽろりと落ちた。
 刃には血がついていなかった。
 ナイフが突き刺さっていたと思われる場所には傷一つついていなかった。
 美しい身体をしていた。
 全身がきめ細かい雪のような白と長い漆黒の髪が鮮やかなコントラストを際立たせている。顔はまだ幼さを残すが体つきはかなり大人びている。
 彼女の眠そうな目が覚醒していく。その大きな瞳にははっきりと僕の姿が映し出されているだろう。
 彼女は一瞬で立ち上がると僕に向かって突進してきた。殺気を孕んだ目つきで走り出してきたのだから僕は思わず逃げ出した。が、二歩も進まぬうちに僕の背後からタックルを仕掛けられ僕は地面に叩きつけられた。彼女に捕まってしまった僕はこの後殺されてしまうのではないかと狂気に駆られ、
「ごめんなさいごめんなさい僕は何も見てません何も知りませんだから命だけは、命だけは、」
「お願い」
 ソプラノのように高い声。その声に、僕は我に返った。
「電気を……もう……駄目、かも」
 彼女の方へ顔を向ける。僕のことを上目遣いで頼み事を懇願する彼女。
 あり得ない。
 彼女の声色は間違いなく。
 僕が片思いをしている女の子と同じだった。


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