第三話

 私立霞ヶ原学園は中高一貫校である。
 そのことを知ったのは後期課程編入試験を受けたときだ。普通の「一般入学試験」とは言わなかったから変だなとは思っていた。
 そして、思い知ったのは入学初日のオリエンテーションの時。
 完全にアウェーだった。
 クラスのみんなが前期課程からスライド式で上がってきたやつらである。もはや僕たちみたいな高校入学組は転校生とほぼ同じで、止めに自己紹介をするときは教卓の横でやらされた。
 だけど、クラスのみんなは外部からの人間にあまり興味がなかった。
 ――いや、違う。
 僕に対してあんまり興味がなかった、が正しいかもしれない。
 唯一の救いは、
「近藤沙希です。宜しくお願いします」
 近藤さんと、同じクラスになれたことだ。
 この後、よくあると思われる質問攻めに遭うことはなく、せいぜい自分の席の周りの人が自己紹介してくれるだけだった。
 その人たちも自分のグループがすでに存在する。
 そこに僕が仲間に入るのは、それなりに面白いとかそれなりの人格が求められるのだろう。
 特に僕から話しかけることはなく、また向こうからも話しかけてくることもない。
 そんな風に自然と孤立し、ただただ授業を受けるだけの生活と化した。
 こんな状況だから、僕は風邪で休んだことにしようかとも考えたが、今日のカリキュラムには怖ろしい物が組み込まれている。
 それは……、
「ぐおぅらぁ!! なあにちんたらと走っとるかキサマあっ!!」
 熱血体育教師、松部源蔵である。
 進学校である霞ヶ原学園の体育なんぞ、勉強の気分転換程度のお気楽な物であるが、松部源蔵が受け持つクラスの体育ではそんなことはなかった。毎回拷問のようなウォーミングアップをさせて思いっきりしごいた後、授業で使う道具を奴隷を扱うかのように運ばせ、残り僅かな授業時間も熱血指導の名の下に生徒をいじめ抜くのである。止めに片付けを休み時間の間に終わらせ、かつ着替えまで済まさなければならないという最後の最後までむかつく野郎なのだ。
 そんな野郎だから、勿論欠席も許されない。
 松部源蔵の授業に耐えきれずサボった奴らは、次の授業の開始早々正座をさせられて何故休んだのかを問いただされる。曖昧な答えだったり松部源蔵が納得しない答えだと、
「そんな答えでオレが納得すると思っとるんかぁ! たぁるんどる!! お前の成績は1じゃ1!! 覚悟しとけ!」
 成績が1、つまりは赤点である。
 私立霞ヶ原学園は赤点が一つでもあれば留年である。各成績の評価は一年を通しての平均になるらしいが、それでも1にされたら挽回は非常に難しい。通常教科なら追試とか補習などもあるだろうが、頑固で無慈悲で悪魔な松部源蔵にそんな救済があるのかどうか分からない。
 とにかく、松部源蔵に見つからないようにして敷地に入らなければ。そう決心して正門から校庭の様子をうかがう。
「おい、そこのお前」
 背後からの女の声に僕は戦慄した。春と言うには蒸し暑い日差しも、松部源蔵にしごかれて校庭から聞こえる奇声とも言える悲鳴も、一気に意識のはるか彼方へ飛んだ。
 声が出ない。
 背中に何か押しつけられる。
「あの女はどうした?」
 心臓の鼓動がバクバクと激しくなる。口の中が乾燥し、金魚のように口を動かすしかできない。
 見られていた。
 何も考えられない。白を切ろうとすれば出来たかも知れないが、そんなことも思いつかないくらい思考が停止している。
「――くく、」
 あっははははは、と突然女は大笑いした。
「すまんすまん、まさかそんなにマジになるとは思わなかった、許せ」
 背中に押しつけられた感覚が消えた。何が起きたのか理解出来ない。僕は恐る恐る後ろへ振り向いた。
 霞ヶ原学園の制服を着た女の子がそこにいた。
 亜麻色のポニーテールで猫みたいな大きな瞳をしている。制服の胸辺りに付けているワッペンの色から察するに二年生の先輩だ。さっき僕の背中に押しつけていたと思われるモデルガンをくるくると回している。何故モデルガンを持っているのか分からないが、とりあえず変な人であることは間違いない。
「松部が校庭で授業しているのに正門から行ってもすぐばれるぞ」
「は、はあ……すいません」
「ふーん。……見たところ、編入生だね。なるほどなるほど」
「あ、あの?」
「裏道がある。ついて来な」
 と言って彼女は正門を通り過ぎて先に行ってしまった。
 どうする。
 ここで彼女を無視して正門からの突破は確かに難しいだろう。
 しかし、僕に対してのあの言動。
 本当に見られていたのかも知れない。
 だとしたら、ここでの解放の意図は。
『場所を変えてじっくりと話し合おう』
 絶対にそうだろう。それ以外考えられない。お人好しで裏道を教える人がいきなり、それも見ず知らずの人にモデルガンで脅すとは考えられない。
 弱みを握っている。だからこそああいう行動に出ている。
 僕に逃げる選択肢は用意されていない。
「……最悪だ」
 もはや諦めに近い感情で僕は呟き、彼女の後を追った。


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