#5

 俺は橘先輩の弁当を食べ終わると、少し飲み物が欲しくなったのですぐ近くの自動販売機へと向かった。一人でいいと言ったのだがついて行くと言って橘先輩も一緒にジュースを購入。早速プルタブを開けて一口飲み、さて、
 どうしよう。
 俺から別の場所提案するわけにも行かない――というか、橘先輩は俺をどこに連れて行こうとしたんだろう。ここである可能性はかなり低い。この場所には何もないからな、普通は遊園地とかそういうアトラクションのある施設でデートをするはず。いや、決して俺がつまらなくなったとか、暇になったとか、そう言うんじゃないからな。
「――こうしていると、懐かしいわね。あたしたちが初めて出会ったときのこと」
 橘先輩が言った。
「覚えてる?」
 記憶を探る。はて。初めてと言われて思い出せたのは、
「……俺が初めて遅刻届けをもらったときか? あの時はまだああいうルールだとは知らないで必死で逃げまくってたな。むしろ橘先輩から逃げ切ってやろうとわざと遅刻して勝負を挑んだりもしたっけ。全部無駄に終わったけど」
「いいえ、もっと前よ」
 もっと前? うーん……もっと前というと、応明学園に入学する前か。え? いつ会ったんだろ? 少なくとも最近の俺の記憶の中では橘先輩のような美少女と出会った覚えはない。となると、俺が子供の頃とかかな? それぐらいだったら忘れててもしょうがないよね。というか、それで許してください。これで一年前とかだったら笑えるな。
「――ひょっとして、忘れた?」
 ぎくり。
「えーと、この場合は十中八九忘れていると考えるのが、まあ妥当と言ったところだろう、うん」
 橘先輩は呆れるように言った。
「そっか……。あんなことがあったのに、浅羽君は忘れちゃったんだ」
「あ――あんなこと?」
「そ。更にはこんなことや……、そんなことまでやっちゃったのに……」
 橘先輩は目に涙まで浮かべて泣き崩れた。やっていない。俺は絶対にあんなことやこんなことやそんなことは、日本が沈没する確率でやっていない。いくら俺でも、泣かすような出来事を忘れるわけがない。しかし、この状況はどうしよう。周りにいた通行人もイチャイチャしていたカップルも子供からお年寄りまであらゆる年齢層をカバーしちゃうほどの視聴率を獲得している。急いでこの場を取り繕わなければ。
「ちょ、ちょっと、橘先輩」
「うう……なによ、香織って……呼んでくれないと……許してあげないんだから!」
 香織ってお前、下の名前じゃねーか! そんな恥ずかしいことアケミみたいな馬鹿ぐらいしか出来ねえよ!
 しかしこの状況下では背に腹は代えられない。名前で呼べば泣き止むのならいくらでも呼んでやる!
「――香織」
 笑顔で、
「うん? なーに?」
 そして俺は気づく。橘先輩の手に目薬が握りしめられているのを。何という、何という古典的かつ伝統的みたいな策に引っかかってしまったのだろう。俺はその劇的ビフォアアフターな表情の激変ぶりに狼狽し、しかし負けたくない気持ちもあるのでしてやったりな橘先輩に向かってこう言ってやった。
「目薬、見えてるから」
 橘先輩は可笑しそうに笑った。ちくしょう。
「あー、やっぱりからかいがいがあるわ、スグル」
 ぞわぞわぞわぞわ。うへ、呼び捨てにされると背筋に寒気が。止めてもらいたい。
「――やっぱり何もなかったんじゃないか、橘先輩」
「カオリ」
「やだ」
「カオリって呼ばないと、あたしの胸を揉んだこと、言いふらすわよ?」
 そのとき、俺の身体に衝撃が走った。
「は? え? すいませんもう一度」
「あたしの胸、揉んだこと言いふらすわよ」
 な、何だってーっ!? そんな馬鹿な! 俺の伝説のゴールデンフィンガーはそんな幸せな体験をしていたというのか!? いやいやいやいや。そんなことあるわけがないじゃないか。そんな経験をしたのなら尚更忘れるわけがない。
「い、いくら何でも、そんなことしたはずないから! 記憶にねえよ!」
 すると、橘先輩は俺の右手を手に取り、そのまま自分の胸元に誘導。え?
 ぷに。柔らかい、生暖かい感触と共に、
「今」
 顔が焼けるように熱くなった。心臓が痙攣を起こしたかのように鼓動が早くなり、全身の毛が逆立った。俺の思考は完全に停止し、体は石像と化し、ただただ橘先輩は笑顔で。
「動かして、いいのよ?」
 その言葉でようやく時が戻った。急いで手を離し、
「うわああああ!? ななななな何をするんだよ!!」
「あんなことや、こんなこと」
 妖美を感じる微笑みを浮かべながら橘先輩は言った。まずい。非常にまずい。もしこんなところを誰かに見られていたら。いや見られているよな普通に! やばいやばい。こんな白昼堂々と女の胸を触るとかたとえ彼女とだとしても犯罪になるんじゃないだろうか。
 瞬間、
「とおおおおおぉぉぉりゃあああああ!!」
 草むらから怒号と影が、
「死ねこのどへんたいがああ――!!」
 自転車にぶつけられたかと思うような衝撃が俺の横っ腹を襲った。跳び蹴りだ。俺はその衝撃に耐えられず一瞬で倒された。受け身を取る余裕もあるはずもなく地面に激突し、全身に激痛が走る。肺に入ってた空気が衝撃で全て吐き出されて意識が飛びそうになるぐらい苦しい。
「――いきなりずいぶんと酷いことをするのね」
「へっ。お前こそそのずいぶんと肥えた中性脂肪に変なものを触らせたじゃねえか」
 意外と冷静なんですね、橘先輩。目の前で派手にぶっ飛んだのにその反応。結構心にきます。言わなくても分かってると思うけど、跳び蹴りをしてきたのはアケミ。一応確認。
「なんなら、あなたも触ってみる? きっと多少吸い取って、その可哀相な体の足しに少しはなるかもしれないわよ?」
「$%&#”!!」
 アケミは言葉にならない声を発した。顔を真っ赤にして体中をわなわなと震えさせている。これは本気で橘先輩に物理的攻撃を加える可能性がある。やばい。もしかしたらアレが出てるかもしれない。しかし、止めに入ろうにも俺の体は思うように動かせずただうなり声を上げて状況を静観するだけ。
「まったく、騒ぐなって言っておいたのに」
 後ろからジュンが現れた。その手には何故かカロリーメートが。いや今はどうでもいいか。
 それよりも目の前の猛獣を何とかしないと。
「……てめえは私を怒らせた……」
「怒らせたら……どうなるのかしら?」
 言うと、アケミは橘先輩に向かって手を――
 ジュンが、
「落ち着けっアケミ!」
 橘先輩に当たる前に、それを阻んだ。
「何があったのかは知らないが、まずは落ち着けって」
「うるさい!! うるさいうるさいっ!! 馬鹿クソふざけんなあ!! こいつは――」
「アケミっ!!」
 俺は叫んだ。アケミの体がビクリと緊張したのが端から見ても分かる。俺は痛みを堪えて立ち上がり、アケミを睨む。ジュンの制止でも止めようとしなかったのはかなり久しぶりのことだ。
 そして、この状態になったアケミを止めるのは俺の役目だ。
「俺に手を出すのはいくらでも構わない。代わりに他の誰かには手を出すな。――約束したよな?」
「…………うん」
 沈黙の後にアケミは小さく答えた。次第に身体の震えが大きくなり、掠れるような声で、
「ごめん……なさい」
「謝るなよ。いつものことじゃないか、気にするな」
「本、っうに……っ」
 俺はアケミに近づいた。アケミも俺の方を向く。その幼い顔は歪み、目から涙が流れていて鼻水も少し垂れている。こんな顔をしたアケミを見るのは何ヶ月ぶりだろうか。最近はかなり安定していたもんだからすっかり油断していた俺も悪い。
 俺は深呼吸をした。
「さあ、いいぜ」
「――――っあああああああああああああ!!」
 アケミは俺の腹にめがけて渾身の力を込めた拳を突き上げた。この時の衝撃を喩えるなら破壊の鉄球でスライムを潰すようなイメージでいい。俺の内蔵を背筋まで押しつぶすほどのパワーで殴られるのだから一瞬意識が飛び身体も浮き上がり世界が高速で回った。
 ついさっきやられたアケミの跳び蹴りがなければいつもは耐えられるのだが、今回は無理だった。
 俺はほぼ無意識のうちに胃で中途半端に消化されている物を全て嘔き戻した。






<BACK>  目次  <NEXT>