#6

 アケミと初めて出会ったのはお互い幼稚園ぐらいの小さい時だ。
 ここに新しく引っ越して間もない頃で、俺は冒険心に満ち溢れて近所を探検していたときのこと。
 俺の家から三軒隣の家の庭で、一人で地面に落書きをしている女の子がいた。
 子供だった俺はなんの抵抗もなく敷地に入り、女の子の所へ近づいた。
「なにしてるの?」
 俺は女の子に尋ねた。
 女の子は地面から顔を上げ、俺の問いに答える。
「おひめさま」
 見れば、拙いながらも王冠とドレスを着ているお姫様っぽい人が描かれていた。その隣にはたぶん王子様。
「ねえ、そんなのかいてないでさ、ぼくとあそぼうよ」
 俺は女の子と遊びたかった。いや、正確には誰とでも良かったのだけれど、一人で寂しく絵を描いて遊ぶことより一緒に遊んだ方が楽しいと思ったからだ。
「――えっ?」
 女の子は驚いた顔をして俺を見た。
「おれ、あさばすぐるっていうんだ。きみは?」
 女の子は困った顔で答えた。
「あけみ」
「ふーん、あけみちゃんかー。いいなまえだね」
 女の子に名前を教えて貰ったらこう言った方がいい、と親父に言われてたのでそう言った。そのことを知らないアケミは顔を少し赤くしてはにかむ。
「じゃあさ、おにごっこしようよ」
 俺がそう提案すると、あけみは途端に顔が曇る。
「――だめ、なの」
「だめ? なんで」
「おかあさんがだめだって……」
 そう言って、アケミはまた地面に絵を描き始めた。今度は女王様だろうか。お姫様より背が高いドレスを着た人を描いている。
 母親が他の人と遊ばせるのを禁止しているとはなんということだと子供ながら思った。抗議してやろうかと思ったが、わざわざそんなことをしなくてもアケミが遊びたいと言えばそれでいい話だ。親に怒られるのは遊んだ後でいい。
 だから、アケミの興味を俺の方へ向けさせる。
 そのために、俺は小石を手にとって一緒に絵を描き始めた。
 描いたのはトカゲに似たドラゴン。こういったファンタジーには必ず出てくる生き物だ。そのドラゴンに乗っているのは、魔法使い。
 俺はアケミの描いたお姫様の体を縄で縛るように消した。
「――ああ!?」
 アケミは声を上げた。
 俺は声を低くして言う。
「ぐっふっふ。わるいがひめはあずかった。かえしてほしくば、ひかりのたまをもって、わがしろにくるがいい!」
 何かのゲームにあった台詞を言って俺はドラゴンと魔法使いとお姫様を消した。連れ去ったことを表現するためだ。
 それと同時に、アケミの興味をお絵かきから離れさせることも狙っていた。誰しも自分の作った物を壊されれば興ざめするだろう。まあ拗ねられて遊んでもらえないこともあり得るが子供の俺にはその可能性を考えることは出来なかった。
 だから、アケミの目に涙が溜まっているのを見たときは酷い罪悪感に襲われた。
「あ……えと、ごめん、そんなつもりじゃ――」
「うぐっ、うあああああっ!」
 首の骨が音を鳴らしたと思う。俺はアケミに顔を殴られてぶっ飛ばされた。
 あまりの痛さに、俺は涙目になったと思う。
 アケミはそのまま駆け足で家に入ってしまった。
 俺はしばらく呆然としていた。まさか絵を消しただけであんなに怒られるとは到底予想出来なかったからだ。
 そして、なんとかアケミと仲直りをして一緒に遊びたいという思いが強くなった。それが彼女へのせめてもの罪滅ぼしになると思ったのだ。
 しかし、俺がいくら玄関から大声で呼びかけても、アケミは遂に出てきてくれなかった。
 代わりに出てきたのはアケミの母親と思われる女性だった。
「ごめんなさい」
 いきなり謝られた。アケミの母親はしゃがんで俺の頭を撫でる。
「アケミに殴られたのよね。ものすごく痛かったでしょ? 本当にごめんね」
「べつに、これくらい」
 本当はものすごく痛かった。首の骨が折れるかと思うくらい痛かった。もちろん今も痛い。でもそんなことは絶対に口に出さない。
「血が出てるわよ、ちょっと待っててね」
 そう言われて俺は口を拭うと、血の味がした。拭った手の甲には血が付いた。
 アケミの母親はハンカチを取り出してそれを俺の口にあてがう。
 俺はいやいやをしてそれを拒否した。
「ぜんぜんだいじょうぶだよ。それよりあけみちゃんにあわせてよ、おねえさん」
 アケミの母親は少し困ったような顔をした。
「そのことなんだけど……アケミは、すっごく怒りん坊さんなの。だからまた会っても殴られちゃうかもよ?」
「いいよそのぐらい。おれはあけみちゃんにひどいことをして、まだちゃんとあやまってない。あやまって、そして、あけみちゃんとともだちになりたいんだ!」
 俺がそう言うと、アケミの母親は驚いた顔をした。
「アケミにあんなことされても、友達になりたいと思ってくれる子がいるなんて……」
「おれ、すこしばかだっておやじによくいわれる」
 俺はニカッと笑ってみせた。アケミの母親はくすりと笑った。
「そう…………。たぶん、アケミといると、すっごく大変だと思う。すごく辛い思いもすると思う。これからも沢山あなたに対して酷いことをするかもしれない。でもね、アケミは本当は優しい子なの。それだけは信じて欲しい」
「うん」
「そして、出来るなら……これから先もずっと友達になってて欲しいな。初対面でこんなことお願いするのも何なんだけど」
「おれはもともとそのつもり」
「ありがとう。……そう言えば、君の名前聞いてなかったわね」
「おれ、あさばすぐる」
「そう、スグル君って言うの。……こんないい子がアケミのお婿さんになってくれるといいのだけれど」
「あ、それはいいや」
 アケミの母親は苦笑した。
「大きくなったらいつでも迎えに来ていいのよ」
「うーん、じゃあおおきくなるまでにかんがえておくね」
「いい返事を待ってるわね。じゃあ、アケミを呼んでくるわね」
 アケミの母親は立ち上がり、奥へと消えていく。しばらくすると、両手を目に当てて泣いているアケミと一緒に出てきた。
 まだ泣いていたみたいだ。俺はアケミに向かって頭を下げた。
「ごめんなさい」「ごめん、なさい」
 同時に謝ったので少し面食らった。
 アケミが謝る必要はないのに。悪いのは俺なのに。アケミは言うのだ。
「なぐりつけて、ごめん、っなさい。ほんとうにっ、ごめんなさい……っ」
 困ってしまった。俺が勝手にちょっかいを出して、それで怒らせたのだから当然の報いなのだ。アケミが悪いと思うことはない。
 俺はアケミの頭に手を置いてよしよしと撫でる。
「おれはおこってないよ。あやまんなくちゃいけないのはおれのほうだ。だから、ごめんなさい」
「ごめんなさい……っ、だから……キライに、ならないで……」
 嫌いにならないで。
 この言葉にどれほどの重みがあったのかは、子供だった俺には想像も出来なかった。
 だから俺は、軽い口調でこう言うのだ。
「きらいになんかならないよ。これからも、このさきもずっとさ。ぜったいに」
「……ほんとう……?」
「ああ、やくそくする。だから、なきやんでさ、おれとあそぼう」
 アケミは母親の顔を見た。笑顔で頷いてアケミに判断を委ねる。
 アケミは目をぐりぐりして涙を拭いた。
「わたしと……ともだちに、なってくれますか?」
 俺は精一杯の笑顔で答えた。
「ああ!」
 ぱあっとアケミの顔は笑顔になった。
「じゃあ、おにごっこであそぼう」
「うんっ!」
 俺はアケミを引き連れて、外へと走り出した。



 うっすらと光が戻ってきた。
 朧気な意識の中、次第に視界のピントが合っていく。
 まず、谷が見えた。その形は数字の三をイメージして貰うのが早い。
 そして、その谷間から橘先輩の顔が覗いていた。
「――気がついたみたいね」
「……ああ」
 どうやら俺は気絶していたらしい。俺は起き上がろうとして、しかし腹の激痛に邪魔をされて再び橘先輩の膝の上へ。
 ……ん? 膝の上?
 何だか非常に柔らかい感触が俺の後頭部を刺激している。
 まさかこれは。これはまさか。
 ヒザマクラ。
 膝枕。
 橘先輩の。
 冷静に落ち着け。
 とりあえず現状を確認するためにも起き上がらないと。
「あ、駄目よ。まだ痛むでしょ? もう少し休んでたら」
「大丈夫だ、問題ない」
 俺は橘先輩の厚意を拒否して起き上がる。まだ腹がジンジンと痛むので右手で押さえながら周囲を見渡す。
 公園の芝生の上で橘先輩は俺を膝枕してくれてたみたいだ。木陰から覗く日差しがまだ真上に近いところを見ると気を失ってからまだ時間は経ってないみたいだ。
 いきなりミネラルウォーターの入ったペットボトルが俺にめがけて飛んできた。反射的にそれを捕まえる。
 投げたのはジュンだった。
「一応飲んどけよ」
「あんがと」
 キャップを外して一口。
 カルキ臭がしたので思わず嘔きそうになった。げえ、なんだこれ。中身はただの水道水じゃないか。
「お前の嘔いた物を流すのに使ったんだ。悪く思うなよ」
「逆にしてくれよ!」
「ははっ。その様子なら大丈夫そうだな。これでもけっこう心配したんだぞ。お前が気絶すんのは滅多に無いんだから」
「そうよ! ほんっとうに心配したんだからっ!」
 橘先輩は顔と顔がぶつかる寸前にまで接近させて言った。思わず仰け反ってそのまま転びそうになる。
「――あ、ごめんなさい。そうじゃないわよね、あたしがいけないのよね。日暮さんのことよく知らないで、挑発したのがいけなかったんだわ。こんなことになったのは、すべてあたしの責任」
 ここまで申し訳なさそうに謝る橘先輩を初めて見た。逆に俺が申し訳ない気持ちになってしまう。
「別に橘先輩が気にすることはないさ」
「でも」
「俺は喧嘩になりそうになったのをただ単に止めようとして飛び火をくらっただけさ。みっともない結果になったけど」
 俺は苦笑いを橘先輩に見せると、橘先輩は溜息をついた。
「――そうね。でも、一つだけ」
 俺の耳元に口を持ってきて彼女は言う。
「辛いと思ったら、いつでもあたしを頼ってね。精一杯ご奉仕してあげるわ」
「えっ!?」
 橘先輩はやや頬を赤めて上目遣いで俺を見る。うわ、ちょっと、それは反則だ。俺は気恥ずかしさに耐えられなくて立ち上がる。
「と、ところでアケミはどこだ」
「あ、逃げた」
「うるさい!」
「アケミならあそこ」
 ジュンに指さされた先。木の陰から覗いて見える小さな身体。
 子供の頃から発作を起こす度に友達を失っていった彼女は、今も不安で押し潰されてそうになっているはずだ。
 嫌われたに違いない。
 そんな不安から解放させるべく、彼女に近づく。
「アケミ」
 涙で目が赤く腫れて、だらしなく鼻水を垂らして蹲っている彼女に向かって言う。
「もう少し手加減しろ。いくら俺でも、くたばっちまうぞ」
「…………すぐるぅ、怒って、る……?」
「ああ。怒ってるさ。――目覚ましのこととか」
 ビクリとアケミの身体が震える。
「自転車のこととか」
 ビクリ。
「……テレビの電源を消し忘れてたこととか」
「うぅ……ごめんなさい」
 後の二つのことは鎌をかけてみただけだったが、どうやら犯人はアケミで間違いなさそうだ。
 俺はアケミの頭に向かって手をかざした。それを見たアケミはぎゅっと目を瞑る。
 そのまま俺は手をアケミの頭の上にぽんっと置いてなで始めた。
「――嘘だよ。怒ってねーよ。何年お前と付き合ってると思ってるんだ馬鹿」
「…………うん」
「とはいえ、俺のチャリをパンクさせた罪は重い。後で飯でも奢って貰うからな」
「……うん」
「それからなるべく俺の目覚ましには弄るなよ。あれは地味に辛いんだからな」
「うん」
「それと」
 撫でていた手を止める。
「――そろそろ泣き止めよ。お前の泣いてる所はあんまり見たくないからさ」
 俺がそう言うと、アケミの顔が一瞬赤くなったような気がした。しかしすぐに俯いてしまったのでその様子は分からなかった。
 アケミは腕で目を擦って涙を拭いた。
 そして、笑顔を見せて、
「――うんっ」
 と頷いた。
 その笑顔は、子供の時に見た笑顔とそっくりだった。





「――なーんか、嫉妬しちゃうわね。あたしもいつかは頭なでなでされたいな」
「ま、そんなに焦んなくたって大丈夫だと思うぜ。あれは儀式みたいなもんだからな、明日になったらいつも通りさ」
「そうなの? ならまだまだチャンスはあるわね」
「と言ったってあいつらだって付き合いは長いぜ。普通あんな関係で子供の時から続くはず無いからな」
「――そうよね。問題はそこよね。ということは……もしかして…………彼、ドMなのかしら?」
「…………ドMだろうな」
「ドMよね……」
「ああ……」






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